アンコール王朝12世紀後半の治世者であるジャヤヴァルマン7世は王都アンコールに多数の大型寺院を建立し、また版図各地を接続する国道(王道)とそれらと合わせた施療院や宿駅を築きました。さらに加えて、地方の拠点都市にも大型寺院を造営しました。こうした地方寺院は共通する構造を持つものがあり、今回、カンボジアとタイに位置する3つの大型地方寺院を調査しました。
カンボジア、コンポン・チャムに位置するワット・ノコールとプノンペンの南部に位置するタ・プローム、そしてタイのバンコクの西方に位置し、クメール帝国の版図西端に位置して隣国パガン朝に対する防衛拠点とも考えられるムアン・シン寺院です。
建築形式はいずれも類似していますが、それぞれ多少の違いがあり、また建材も各地で利用できるものの制限があったことが推測されます。また、寺院の増改築についてもそれぞれに特徴的であり、特にアンコール時代の晩期、あるいはポスト・アンコール時代の改変の様相もそれぞれに異なっています。
このペディメントはワット・ノコール寺院主祠堂北面の仏陀出城の場面ですが、こうした彫刻がジャヤヴァルマン7世紀の当初彫刻であるのか、後補の改変によるものであるのか、悩ましい部分も少なくありません。
このストゥーパもワット・ノコール主祠堂の主室内に安置されているものです。主祠堂の頂部改変と併せて、このストゥーパも後世のものと考えられます。ポスト・アンコール時代のストゥーパの形式にはいくつかの種類があり、そうした特徴から、こうした改変の年代を推測することもできます。
バイヨン期の多くの仏教寺院が、後世に仏教モチーフを破壊されてしまったのに対して、ここタ・プロームではなぜかこの廃仏の影響を免れています。地域的にこの活動の手が及ばなかったのかもしれません。当初仏教モチーフを良く残した貴重な遺構です。
ここでも多様な改変の痕跡が認められます。共通するのは、主祠堂の前に大きな拝殿空間が木造で付加されることです。多数が宗教儀礼に参列する変化が生じたことによるものでしょう。王家や特定のエリートのための宗教活動が、より開かれたものへと変化した過程が伺われます。
境内の幾つかの建物では、後世に改変されたものと考えられるラテライト材によるペディメント装飾が残されています。これらは大振りな仏坐像を共通して示しており、かつての精緻な彫刻作業が行われることはなかったようです。
その他にも、扉や窓開口部の追加、祠堂と回廊の接続等、伽藍各所に改変の痕跡が認められます。
ムアン・シンはいつかは行ってみたいアンコール帝国の西端の遺跡でした。カンボジアからタイへと足を延ばすと、遺跡の整備事情が異なっていることが印象的で、境内は観光地として芝が張られ、遺構安定化のために多数の新材が利用されており、多くの修復個所では既に部材の新旧の区別は困難です。小学生の遠足の訪問地でもあって、たくさんの子供たちが学んでおり、駐車場やお土産物屋さんも良く整備されています。
2基の寺院が隣接していますが、こちらは北西側に位置する副次的な寺院。壁体上方の構造は失われており、崩落石材もありませんので、上部構造を推測することはもはやできません。
多数のヨニ座が回廊状の空間に規則的に配置されています。
隣接する博物館では、出土遺物や重要な石材が展示されています。興味深いのは尊顔塔であったことの根拠となる顔面の一部をなす石材の展示です。数が限られていますが、こうした石材が存在するということは、尊顔塔があったという確かな証拠になるでしょう。主要部材はラテライトですが、限られた砂岩材はこうした目につく構造体に利用されていたということのようです。
ご本尊は観世音菩薩像。現場にはレプリカが設置されています。7 世紀西北インドで成立した経典『カー ランダヴューハ・スートラ』(Kārandavyūha–sūtra)を出典とすると考えられている彫像で、アンコール遺跡群の他、大プレア・カーン等の地方寺院に認められます。
寺院は周壁と複数の濠を連続した都市的構造の中央に位置しています。現在でも周囲の囲繞体は良く残っており、ここが前線の防衛拠点として築かれたことを物語っています。
周壁内部に寺院以外の構造体が発見されているのか、居住の痕跡はあるのか、今後、既存の調査事例などを調べていきたいと思います。
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